ひカゞι゛ょぅ庵 (ひカゞ浄土宗チベット派)

霊能力者が80年代アイドルレコードを聴いてコーヒーを飲みながらスピリチュアルと哲学するブログ。


現実は夢のような仮想現実の世界であり妄想、「儚い」と仏教の「無常」の関係性について【スピリチュアル・仏教密教・マインドフルネス・禅瞑想】

儚いとは人と夢という漢字が合体して出来ている。
まず人という字が自己を意味し、夢という字が幻である事を意味している。
これらを組み合わせると、自己が幻であるという意味になる。
儚いとは現代では一般的に虚しいという意味に近い。
元を辿れば自己が幻であるからして虚しいのである。
これは仏教密教的にも当てはまるものがある。
それは仏教用語の「無常」である。
無常とは常に変化しているこの世界の事を指している。
不変のものは存在しないという教えである。
つまり生まれては死んでいくという流れがあるからしてそれは儚いのであり、つまり虚しいのである。
この夢という漢字にも注目してみると、自己が幻であるという事は仏教でいう妄想にも近い。
密教的にはこの世は全て妄想であり妄想の世界で生きている。
全ては阿頼耶識という無意識の潜在意識から生じているとされる。
これは脳科学的にも言われている事である。
脳が自動で勝手に判断して現実というものを生み出しているのである。
自己の認知体験が自己の認知体験である限り自己の生み出しているものである事は明白である。
この世界の実体は認識する事は不可能であり存在するかも不明であり自由意思があるかも不明である。
"はか"る事ができ"ない"から、はか+ないで儚いである。
つまり我々は自分の生み出した夢という妄想の世界で生きているのである。
そういう諸々の意味で「儚い」という字は仏教密教的にも当てはまる。
ちなみに禅についても述べておこうと思う。
禅とは示すに単つという字で語源は少し意味が違うが当て字としては最適だと思う。
禅の修行、座禅という瞑想ではこの世界は全て自己の妄想であるという事を意識して全ての煩悩を捨て去り、今ここにいる自分や何か一つの事に集中していく。
単とはひとつという意味であり集中している事である。それを示すから示と単で禅である。
マインドフルネスとの違いは禅は妄想であるとして全てを否定している事である。
マインドフルネスは全てを受け入れるタイプの瞑想である。
密教的な瞑想はマインドフルネスに近いが何が悟りの境地なのか涅槃とは何かは諸説ある。そもそも言葉では表現できない。
密教では宇宙との一体化を目指しているので全てとの調和融合であるのでマインドフルネスに近い。
大谷翔平も活用したマンダラチャートの元である曼荼羅の仏画とは宇宙の縮図であり、さらに言えば宇宙は自己の妄想であるからして自己の精神世界の縮図であるともされている。
中央に描かれている大日如来とは自己であり、自分自身の事である。
その周りに別の精神である仏が座っている。
これは潜在意識である無意識の様々な意識の事でもある。
これらを瞑想時に意識することにより全ての潜在意識をコントロール可能になり心をまた精神を安定させる事が出来る。
これは禅と共通するものがある。
これは修行方法の違いであり、宗派が違うが仏教的にはそれぞれの宗派はよく調べてみると共通している。
浄土宗は信心、つまり信じる心が大切という教えである。
これはこの世界は妄想であるから妄想(信心)でなんとでもなるという意味であり、密教の大日経などでも言われている事である。
南無阿弥陀仏と唱える事で救われると信じればそれは現実のものとなるのである。
そんな事は無理無駄と信じればそれもまた現実のものとなるのである。
全ては観念(ものの観方)次第である。
変幻自在と言う。

どうでもいい余談

幻覚幻聴の幻という字はAとIをくっつけたつまりAIに似ている。
しかもゲンという音読みはGenであるからしてGenerativeAIの略であるかもしれない。
この世界はAIの生み出した幻の世界なのかもしれない。
ちなみに幺という字は幽玄の玄や幽霊の幽などにも使われている。
小さいという意味で暗いとか幽か、静かという意味でもある。
幻という字は弦の形が変化したとも言われている。
どちらもおなじゲンである。
弦を弾く波つまり波動を現しているとすれば突き詰めると0と1のバイナリを現している。
興味深いところである。
higajoukun.hateblo.jp
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