今回のテーマは所詮と思ってしまう深層心理だ。
我々が何かをしようと思った時、どういう深層心理があるかをふと思った。
それは何かできるだろうと思ったから行動に移したということである。
何かをできるというのはある意味支配的でありできるかどうかわからないのにやるというのはある意味現実を舐めた精神状態でもある。
言い方は悪いがある意味そういう感じがある。
例えば上には上がいる。自分が納得して達成感を感じていたとしてもまだまだ上からすれば未熟であり、実は自分は下であり舐めていたのである。
上になろうとする行為はある意味支配欲であり何かをするというのは支配的であるとも言える。
自己を成長させる行為も精神を支配する行為であるとも言える。
対象が所詮その程度だろうと思うから何か簡単に成し遂げられそう、つまり何か達成できそう、何かできそうと思うわけである。
舐める程度は人によって個人差があるが少しでも行動に移せば少しでもそういうものがあるということになる。
支配とは支え配るという意味でもある。
そのおかげで我々は生きているし何かできるし何か成し遂げられる。
これはアンチとして相手を論破したりマウントを取ろうとする心理にも関係していると思われる。
所詮この程度だろうと早計するから行動に移してしまうのである。
つまりこの世の中は舐めで構成されている。何かをする我々はみんな舐めプをしているのだ。
これは仏教的に言えば仏教用語で自慢や我慢などに近い。自慢の慢とは侮るという意味である。
既成概念からくる所詮と思うものもあるだろうし、自分で推測した結果所詮と思うものもあるだろう。
コンピューター的に言えば処理の優先度だろう。
そして所詮とは仏教用語でありつまるところ、行きつくところ、つまり計算の終了を意味している。
要するにフレーム問題と関係がある。どこかでAIも計算を終わらせないと何もできないのである。
うさぎとカメの話のうさぎに似ている。
うさぎは舐めたので油断して負けた。
これと同じように我々が舐めて何か所詮この程度ならできるだろうと思ってやったとしてもその結果が良くなるか悪くなるかはわからない。
環境破壊や人災などはそれで起きている。
運や自然環境や相手の状態など不確定要素が多すぎるので実際それができるかもわからないし、なにかした後になにが待っているかもわからないのである。
全知全能の神でもないのでなにかできると思うこと自体傲慢なのかもしれない。
これはキリスト教の禁断の果実(善悪の知識の木の果実)の話にも関係してきそうだ。
知識といえば仏教でいう唯識論にも関係していると思われる。
意識が生じ識別が生じ善悪が生じ苦悩や全てが生じる。
かといって何かするなといわれてもそういうわけにはいかないのが我々人間や動物などである。
神と等しくなれると思い食べたのなら我々は全知全能の神を目指して頑張るしかないのである。
そしてこの世には神に近くなった支配者が生まれ下の者を支配するようになっている。
上には上がいるという事は支配者は必ず存在することになる。
何をもって上かは各々の定義によるので、あるグループに属するトップが最上ということになるだろう。
基本的には真理は上も下も決まっていないし善悪も決まっていないので、我々が都合の良いように決めるか、むしろ決めない修行をして解脱(ニルヴァーナ)するかといったところだろうか。
higajoukun.hateblo.jp