この世界は何故存在しているのか。
私は唯物論か唯心論か悩んでいたころ、仏教・密教の唯識論にたどり着いた。
その前にそもそも仏教には十二縁起というものがある。
これはこの世界や苦しみなどは12個の原因によって生じているというものだ。
無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死
この12個が原因である。
とりあえずそれぞれ簡単に説明しよう。
無明
これは無知であるという意味である。
理解する力がないという意味でもある。
知らないということから全てははじまる。
行
これは行うという意味である。
この行は無明(無知)であるから誤って行って動き出してしまう(動揺)というものであり、そもそも現実世界とは自然に意味がなく無知で動くものであり、故に行とは無明から生じている。
無知であるのに何か行えばどうなるか大体検討がつくと思う。
自分は正しいのだという無明から生じる。
業(自業自得の業)、カルマとも言う。
自然(じねん)とは自性(自分が持つもともとの性質)とも言える。
自然の自とは自分の自の事。然とは様を意味する。自分の有り様という意味である。
識
これは認識、識別する事である。
つまりこれは何でこれは何か決める事。
行いによって生じたものを認識、識別すること。
意識はここで生じている。
これもまた行によって識が生じている。
名色
これは名前(概念・妄想)と現実の物質の事である。
名色の名とは名前、色とは形や物質の事である。
つまり妄想と物質の二つが生じるという意味である。
これもまた識によって生じている。
つまり識別により妄想と物質の二つに分裂している。
六処
これは第六感(心)までの五感とかそういうものである。
詳しく言うと眼・耳・鼻・舌・身・意の六個である。
名色の妄想と物質がそれらを生じさせる。
つまり名色によって六処つまり六個の感覚の元が生じるという事である。
名色は識別によって生じている。
つまり意識が感覚を生じさせている。
触
これは実際に六処(六個の感覚器官)で触れる事だ。
六処があるから触れることになってしまう。
受
これは触れた事によってその感覚を受ける事だ。
つまり実際に感じ取る事である。
意識で識別すると様々な妄想と現実が生じ、そして感じるというのがここまでの話である。
まだここまででは煩悩や苦しみは生じていない。感じるだけだ。
愛
これは感覚によって欲望が生じるということである。
これもまた受によって生じている。
取
これは欲望に執着することである。
快感を感じ取得した結果それらに執着し貪欲になり欲望が生じる。
この取もまた愛によって生じている。
有
これは有るということである。
取という執着から生じている。
要するに意識があるから感じ、感じるから欲望が生じ、欲望があるから執着し、行いや物質や妄想や感覚が有り続ける。
生
これは生じるということである。
ここでついに生まれることになる。
つまりここまでをまとめると、無知であるから行ってしまい識別してしまい妄想と物質が生じてしまい六感が生じてしまい感じてしまい欲望が生じてしまいそれに執着することで全てが存在する生じるという事である。
唯無知論とでもいえそうだ。
老死
これは老けて死ぬことである。
苦しみの一つである。
ここは別の苦しみなどに置き換える事は可能だと思う。
結局のところ全ての苦しみは無明(無知)から生じていることになる。
つまりこの苦しみを解消するには逆にたどってそれらを消滅させれば良い。
これが十二縁起の教えである。
まとめ
これらを消滅させた境地を空と言う。
これらを理解することを悟ると言う。
空になる事で悟る事ができる。
つまり意識や無知を消滅させ冷静になって全てを知る事で智慧が得られ悟りが得られるという事である。
智慧は現実世界へ戻ってきて活かせば良い。
空のままでは何もないので死とほぼ同じなので注意。
寂滅や無為涅槃とも言う。
実際極楽浄土と言われる涅槃(ニルヴァーナ)は死をも超えた全てを理解しきった悟った境地だとされている。
つまり苦しみがない極楽の世界であり全知である。
お坊さんはそこを目指して修行しています。
自殺しようとしているわけではありませんし簡単には到達できませんのでご安心を。
到達した後は人々を智慧により救ってくださる仏となります。
いわゆる神に近い存在となります。
ちなみに仏教では仏>神なので仏が神より上とされています。