理性とは感情か、感情とは理性か【スピリチュアル・哲学・クオリア・脳科学】

今回は理性は感情か、また感情は理性かというテーマだ。
結論から言うとどちらも波動即ちクオリア又は構造体であるだけである。
しかし我々は意識があり識別し、分別してしまう。
二元論にしてしまう癖があるのだ。
そもそも定義が決まっていない機構構造に名前を与えてわかりやすくしているだけである。
実際現実問題として理性とは感情なのか、感情とは理性なのかどうか。
過去のクオリアの記事から引用してみよう。
higajoukun.hateblo.jp

感覚的思考には様々なものが有ると考えられる。
ジェスチャーや手話などは手などの体の動きを見たり感じたりして思考する。
つまりこれは体の動きによる感覚的思考と言える。動きを認識してその後感覚的思考をするのである。
絵図や音声で思考する場合、それらによる感覚的思考と言える。
ではそもそも認識した後に行う感覚的思考とは何によるものだろうか。
特別な言語や思考だろうか、イメージだろうか、記憶だろうか、直観だろうか、意識だろうか、クオリアだろうか。ではそれらはどういうものなのか。
また、何を使って感覚的思考をするかで世界は大きく変わっていたと考えられる。

感覚的思考の感覚そのものが記憶なのか何であるかは不明だが、とりあえず直観的クオリアと呼ぶ事にする。恐らく志向的クオリアと似た概念だと思われる。
例えばコップがあるという事を認識するには脳内で計算をする必要があり時間がかかると思われる。しかし我々はコップを見るとすぐにそれがコップだとわかる。文章の場合でも一文字一文字の認識はすぐにできる。認識の速度的に殆ど直観的である。もちろん高速で認識できるからといって絶対的高速であるのではなく、脳内では時間をかけて処理していると思われる。しかしクオリアが別の次元に存在しているなら絶対的高速である可能性も考えられる。
そもそも直観がクオリアである可能性がある。

もしかしたら全てはクオリアで出来ているかもしれない。我々は普段見たり聴いたり食べたり匂ったり触ったり感じる事が大半である。
頭の中で思考する時も、言葉の発音である音を感じ、文字を見る時も見るという感覚があり、思考は直観的であり感覚的である。論理的思考であっても論理的な構造そのもの、ロジックそのものが感覚的なのである。
思考するときに記憶によるイメージが脳内で構成されるとする。イメージの想起によってそれを見た時に想念が発生し、想念と想念を組み合わせて論理的に思考する。その想念が理念や論理の正体であり、感覚的に思考している事になるのかもしれない。論理的に思考していると言っても脳内を見て論理そのものを見て確かめる事が出来ない。論理そのものとは志向的クオリアや直観的クオリアである。
感じたものは全てクオリアである。この世界は感覚的な世界であり、感覚だけが存在している。それをどう感じ取るかで見方が変わるのである。

結局のところなんなのかと言うと全ては感覚(クオリア)なのではないかということである。簡単に言うと全ては脳波や脳内電気信号である。
五感や意識も感覚であるし概念の想起も脳の電気信号による脳内の感覚である。
思考も言語という音で感覚的に行われている。
音なしでも思考は感覚的に可能である。
つまり思考する理性=感情でもあるし感情=理性でもある。
情が何かと言えば感覚の次元の違いだろう。感覚の違いだと思われる。
しかし概念そのもの自体はなんなのかとすると難しくなってくるが今回は恐らくこれは無関係。
脳内では思考する時に潜在的に脳内イメージが生じている可能性があり、そのイメージの組み合わせや修正などで感覚的に思考している可能性もある。
超ひも理論からすればどちらもひもでしかないしひもが揺れる波動である。
理性と感情を分ける事もできれば同一だとすることも可能であるということを意味している。
ただしこれらは全て観念(想う事)次第でどうにでも変化もする。
また形而上学的にこの概念自体や感覚自体が分かれて存在している可能性もある。
ここら辺はまだよくわかっていないし証明が出来ない。