我々は普通三次元空間の物質界が現実だと思い込んでいるが、意識の存在を考えれば精神的な意識や概念や意味そのものが現実である可能性がある。
よく我々が勝手に意味を決めているだけで善悪は決まっておらず全ては自然であるとか空であるとか全ては意味のないものとして考えがちだ。
しかし意味は実際に意味そのものとして概念としても各々に存在はしている。意味がないと思い込んでいるか決めつけているだけである。
これは単にどちらを現実かどうか決めるという定義の問題であって、そもそも決まっていないかどちらかに決まっていると思われる。
いわゆる唯物論か唯心論か唯識論かの話になる。
決まっているとした場合、どちらが真の現実なのだろうか。
我々の概念や言葉の意味や感覚の意味そのものは意味そのものが存在する次元つまりクオリア次元に存在すると考えられる。
物質界の三次元とは別の次元に存在する。
現実世界がクオリア次元だったとした場合、意味がそもそもあって後からその意味に従って三次元の物質が存在していることになる。
そう考えると唯識論や唯心論が正しいようにも思える。
唯物論が正しいとした場合は精神や意味そのものも物質でありクオリアも物質であると考えられ、意味そのものも何らかの物質として別次元に存在する可能性がある。
全ては構造体であり構造があると考えた場合、唯物か唯心かどうかはただの定義の問題であってどちらにも勝手に我々は決められる。
つまり唯物か唯心かどうか決める行為自体は妄想である。
我々人間如きの認識体験は人間の認識体験に留まり超越することができないので実証不可能である。
不可知であり人知を超えている。
そんな世界で何か認識したとしても全て妄想でしかなく意味は我々が決めているしそれに付随して物質も我々が生み出している可能性がある。
かといってニヒリズムに傾倒しても意味はなくなるだけであり、意味そのものはクオリア次元に存在するのだから我々の意味を大切にすればいいはずである。
この辺の話と仏教哲学との関係性を考えてみるのも面白いと思われる。
そして話は変わるが我々は何故快楽を求める方向性へと向かっているのだろうか。
楽をするために快楽物質を流すために我々はその方向へ向かおうとしている。
この甘えや楽をするという行為が自然にできた構造であるとして、それになんの意味があるのだろうか。
この方向性へ向かう意味を今後今一度考えてみたいと思う。
恐らくクオリア次元にその真実の意味が隠されているかもしれない。
しかしそれを認識したとしても妄想でしかない。
大体実体として意味が決められている場合としてもその意味を決めた何者かの妄想である可能性がある。
その支配から我々は抜け出せないのだろうか。
これは自由意思の話とも関係してくる。