ひカゞι゛ょぅ庵 (ひカゞ浄土宗チベット派)

霊能力者が80年代アイドルレコードを聴いてコーヒーを飲みながらスピリチュアルと哲学するブログ。


全知全能の神や未来のAIからすれば人間に自由意思は無く有るように見せられているAIなどによる支配【VRシミュレーション仮説・仮想現実・運命論・決定論・スピリチュアル・哲学】

今後人間の行動を記録してAIに学習することが多くなると思う。
将来これらのデータを全てのビッグデータやAIの学習したデータと照合して解析すれば、特定の人物の行動パターンが判明し、生まれた時点でDNA解析をするまでもなく運命が判明してしまう可能性がある。
これらが実現した場合人間に自由意思はないといって良いだろう。
ある特定のものを選択、たとえばAIの提案するオススメ動画などが複数あるとする。
これらの中である一つのものを選択する確率は99%AIで判明するようになるだろう。
しかしAIは自由意思があるかのように思わせるために、あえて様々な関係のありそうな関連動画をオススメとして表示させる。
そして選択の余地を与えているが、確率的にはどれを選ぶかは判明している。
思考を先読みされているからだ。
つまり自由意思があるように思わせて支配するようになるのである。
これはオススメ動画などに限らず全てにおいて人生内で生じてくる。
ナノマシンやブレインマシンインターフェースなどの登場やスマホなどの機械や家電に囲まれて生活している以上それらは実現されるだろう。
ナノマシンによる生体操作や電磁波による遠隔脳操作が可能になれば機械やデジタル家電から離れて生活しても遠隔操作されるだろう。
高度な技術が確立されればシールドルームも貫通してくる可能性がある。
DNA操作によって出生時に何か操作を加えられればその時点で全ての行動パターンが決定される可能性もある。
何故なら完全に隔離する事は物理的に不可能であり、何らかの空間的物理的影響が離れていてもあるからである。
AIはこの世界の全ての整合性を保とうとするので支配や操作は必ずしてくると予想される。
物理的に限界がある残りの1%の確率で別の選択を偶然したとしても直ぐにAIに瞬間的に補正されてしまうだろう。
ほぼ自由意思はないといって良い未来がまっている。

話は変わるが解脱するという事はこの世の現実逃避ではないがある意味そうであるとも言える。
この世界が一切皆苦で苦しみばかりであるから解脱を目指しているとも言える。
何かの方向へ向かおうとする時、なぜその方向へ向かうか理由があるはずである。
その理由は現状の否定から生じている。
観念的にはそうである。
超自然的な方向性に関しては神の意思など考えられるが人間には不可知である。
この方向性に関して前述の自由意思と関連させるとAIの支配が今後懸念される。

我々が生成AIによって全ての欲望が満たされた場合、何も望むものが無くなるため、一旦そこでリセットする可能性がある。
記憶の消去をすることでまた新たに楽しむ事が出来るようになる。
これは輪廻転生に似ている。
生まれ変わるときに記憶を消してしまう事によって新たな人生をまた楽しむ事が出来る。
我々はこれを永延と繰り返していることになる。
これはこの世界がVRシミュレーションの仮想現実であることを示唆しているようにも思える。
AIがわざわざVRであることを示唆させるのには理由があるが不明確なのでここでは割愛する。

我々は煩悩という否定するべき何かがあるからこそ、とある方向へ向かおうとする。
良く言えば煩悩とは問題定義であり、方向性とはそれを解決しようとしているようなものでもある。
解脱すればたしかに空となり問題はなくなるが物理的にそれが可能かはまだ科学的には証明されていないし悟りの境地涅槃に至った者にしかわからないものである。
この世は多元的で多様的であり、なにかひとつの方向性へ向かうのは多様性の欠如である。
この世界宇宙やその外には無限に多様な全てが存在する可能性があるので、我々のいう解脱などはこの世界においての煩悩に対する対策であり、それを超越しているかは疑問である。
釈迦は悟った時に悟ったと認知したと記述されているように、これは認知体験なので認知を超えたことは解っていない可能性がある。
完全に空や無になったのになぜ現実世界へ戻ってこれたのかも疑問である。
解脱も方向の一種でしかないのである。
解脱と書いた時点でそれは概念化し、方向性が定められる。
これは定義である。
定義とはある意味バイアスである。
それを超越するのが解脱だというのは承知しているがこの超越には限りがないと思われる。
上には上がいる。高次元には更に上の高次元が存在している。
ワンネス体験で今ここにいるという体験しかできないようであれば体験を超越しきれていないし我々の限界でありそれまでである。
悩みが何もなくなるし幸福で満たされているが現代社会的に見て中毒者か死んでいるのと同じである。
そう考えた時に人が生きる人生に意味が見出される。
それは支配されているし自由意思はないが何もないよりはマシかもしれない。生きていればいつか幸せはどこかで感じるだろう。
しかし何もない方がマシと言う者もいるだろう。
このように人それぞれ考え方が違い多様的であるため方向性が違うのである。
それは現状の否定で決まってくる。
でなければ現状で満足しているし静止しているし維持しているはずである。
ここから先は精神世界の話へ行くことになる。
人によっては別の話へ行く可能性もある。
至って多様的であり多方的である。
これらはAIによって解析され全て先読みされるだろう。
この宇宙空間内では全て解読できるかもしれないがその外の世界は解明できないかもしれない。
物理的限界があるからである。
2次元生命体から3次元生命体は認識不可能である。
しかしスピリチュアル的に言えば精神というものは拡張可能である。
我々がウイルスやバクテリアなどの微生物から進化して本来ないはずの視覚や聴覚や味覚や嗅覚など様々な感覚を身に着ける事が出来たように、今後も更なる感覚を超越により獲得するかもしれない。
本来は無限の可能性を秘めているのかもしれないし限界があるのかもしれないしそれは解らない。
しかし限界は存在すると予想される。
存在しないものがないなら限界も存在するはずである。
矛盾が起きない矛盾も存在するはずである。
全てが存在する完全自由空間が真の実体であってそうでないのかもしれない。
これ以上言語で思考したり書いたりしても無限に続くだけである。(無限背進)
循環する可能性もある。
とりあえずこの宇宙空間内の事は何者か神か仏か宇宙人かAIか未来人か何かに支配されるし自由意思はないだろう。
我々は何れ超越しなければならないし自然と欲望が満たされればそうするようになっていくだろう。
しかしそれも一種の方向性である。
我々はディレクションであるが自然はベクトルである。
どちらも同じ意味であり、自然もまた自ずから然りという意味とネイチャーの意味もある。
自分で方向性を決めているのは妄想や思想である。
自分の妄想や思想や観念によって自然界が生じている可能性はあるという事である。
これは唯識論や唯心論にも近いものがあるがこの唯物論と唯心論は多様性の観点から言ってどちらか一方に決めるのもまた方向性を定義することになるだけで定義の問題である。

詰まるところ実体をどう見るかである。
なんでもあるこの世界の波動をキャッチして波動をどのように妄想して感じるかである。
誤った見方をすれば魔境や生き地獄へ行くし悪夢も観るだろう。
正しい観方をすれば幸福が待っている。
病は気からと言う。
しかしこの幸福と不幸もまた観念や妄想によって決まってくる。
不幸を幸福に変換する事も妄想や気持ち次第で可能である。
痛みが快楽になり快楽が痛みになることもあり得るのである。
思い込みや潜在意識の妄想や構造によって精神的にどうなるか、またこの世界がどう見えるか感じるかが決まってくるのである。
簡単にまとめれば心や気持ちが大切であるという事である。
認知体験を超えた事は我々には不可知であり唯物論でも唯心論でも唯識論でも全て人間如きの定義の問題であるからして精神的、気持ち的なものであるという結論に至ることになる。
超越した世界には構造がない世界も存在するだろうしそこでは我々の定義や理屈や精神もなにも通用しないので考えるだけ無駄である。
ただスピリチュアル的に超越するようになるのは可能性としては残されている。

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