受容の低下が甘えを生じさせる件について【哲学】


我々は欲望によって浪費してしまう事がよくあるが、これは結局のところ現在の自分の状況に満足できない、つまり受け入れられない事によるものであり、受容つまり受け入れる精神的観念性の低下によって生じていると言える。
些細な事でも法律で厳しく取り締まるのも何か問題を受容できなかった、うまく解決できなかった結果そうなってしまったわけである。
全ては多様であるからして全ては対立するものである。
我々は受け入れられるものと受け入れられないものがある。
それは人それぞれ違い社会的規模で決められるものでもない。
社会的規模では多数決でそれらは決まり法律が作られる。
これでは少数の人々は対立する事になるので根本的解決には及ばないのである。
大切なのは多様であるから多様性を受け入れそれらを認め合い相互理解して観念的になる事である。
認められない、受け入れられないと解決方法も考える事が不可能になり解決できなくなってしまい対立したままになってしまうのだ。そして戦争や争いが生じる。
そこで我々は法律というものに甘える事になる。
つまり受容の低下は甘えを生じさせる。
また金で解決できる場合、金に甘える事になる。
自分の欲望が満たされない場合、ほとんどの場合金で解決していると思う。
お腹がすいたら当然食べ物を金で買わないといけないので金に甘えるし食べ物に甘える事になる。
お言葉に甘えてと言うように我々は何かに甘えてしまうものなのである。
家電やコンピューター、AIなど機械に依存している現代人も機械に甘えている事になる。
これらはやはり受容の低下、現実を受け入れられなくなっているから生じた結果である。
全許容する必要はないが、とにかく対象を一旦受け入れる気持ちで物事に接する事が多様性を認める第一歩であり、そして話し合い相互理解して解決策を見つける事が分断や対立解消のために大切な事なのである。
機械文明や経済の発展はある意味甘えの結果でありそれは恥であり、また法律の厳しさも恥である。
本来法律が無くても機械が無くても金が無くても解決出来ることが望ましいし、それが甘えていない精神性の高い観念的になれる大人であるのだ。
そしてこの話は依存の問題、究極宇宙の依存、精神の依存へと続く。
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