差別は個性を生みます
個性は多様性を生みます
多様性は多様な理解と多様な幸福を与えます
同時に多様故に対立も生みます
相互理解することにより多様性を認め差別をなくすことで対立は解決していきます
理屈や思想とは全て結局のところ差別(しゃべつ)なのです
この差別の何が正しいか間違っているかは我々には不可知であり思うとは思うにとどまり妄想なのです
我々は思い通りにいかないが故に差別してしまうのです
不可知と言う無明(無知)から対立や妄想が生じるのです
だから我々は我々を理解するという努力が大切なのです
不平等とは差別という妄想からくるのです
現代的に言えば全ては本来ただの物質でしかないのです
そこで自然に意識が生じ思想が生じます
この意識はカオスすぎる宇宙ゆえに無知であるからして妄想を生じさせ差別が生じ不平等を生じさせているのです
この世界は全ては観念で変化する妄想の世界なのです
そして本来はただの物質でしかないのです
この物質をどう観念するか(見ているか)によって平等か不平等かなにがなんなのか全て決まるわけです
そしてそれを支配しているのは意識です
これを唯識と言います
唯物か唯識かどちらが正しいかは解明されていませんが意識があるのは変わりはないので意識を観念的または物理的に変えるしかないのです
これは例えると精神科でカウンセリングを受けるのと薬物で脳を制御するという違いのようなものです
観念的に変えるのは瑜伽(ヨガ)による深い瞑想をすることで変えられるとされています
究極は瑜伽です
人間であろうが動物であろうが言い訳っていうのはできてしまうものでそれは実は妄想なわけです
妄想とは阿頼耶識などによるカオスなものであり本当はお互い誰も何も言う事が出来ないのです
妄想のことをパパンチャとかもっと言うと自性とか言います
この何も言う事が出来ない事を自性がないつまり実体がないという空と言いいます
空の立場的には邪見(悪)とは空に反対する考えの事を指します
つまり妄想の事です
みんな同じ服装である制服とか同性愛の人達とか普通一緒になるはずがない人と一緒になるという点においては愛があるしみんなひとつになるという点では宇宙との融合、梵我一如と関係性があると思いました
真言(マントラ)とは音波でもあります
つまり波動です
この波動(振動)により様々な物体に影響があります
神秘的なようで物理的です
人間は脳が本体ですが操れない心臓や臓器などの肉体や菌も自分だと思い込んでいます
このことから言えるのは自我は脳をいじれば拡大できるということです
究極ヨガ(瞑想)により宇宙と一体化できます
無意識の阿頼耶識などから全てが生じているので阿頼耶識などを制御できれば幸福を得られるわけでそのためには阿頼耶識にアクセスする必要がありアクセスするには阿頼耶識または宇宙そのものである大日如来の化身である諸現象(阿頼耶識・末那識など意識による分別によって生じたもの、自性或いは実体)を見て瞑想(ヨガ・瑜伽)によってそれを理解し観念、制御する事が大切だと思いました
空と観るか幸福と観るか不幸と観るかは観念によります
つまり究極ヨガです
自分と相手の両方を見れれば自然と両方にとって適切な対応ができるものです
これは無明(無知)に関係しています
ヨガの究極とはどんな姿勢であっても全知全能であるという状態であるとされている
神様が全ての人間の願いを叶えてしまったら世界がむちゃくちゃになってしまうんじゃないかなぁと思いました
人生の出来事に意味はあるのかわからないけど
意味があると思って前向きに行くしかないんじゃないかなぁとか思いました
なんか自分が強く鍛えてしまうと問題がなにもなくなって甘やかされてしまうような気がしてきた
我々はわかった気になっているだけで実際はわかっていないのです
全てを知ってしまえばもう得るものが何もなくなりつまらなくなってしまいます
中途半端に知る事ができるが故に楽しみを見出せる
言い換えれば楽しんでいる気になれるのです
この気になれるというのは観念と言いいます
観念とは妄想のことです
妄想であるから楽しめるとも言えるしまた不確実な妄想であるため不幸になったりもします
この妄想を操る事がキーポイントとなります
全ての人が同じ思想になることは多様な世界なので現実的に考えて無理なのでどう技術的に解決するか効率的な社会にしていくかが大切だなと思いました
多様性のある社会とは多様性を認めるので全ての人を洗脳するような思想統一することではないと思いました
勝手に名付けてるファーストタイム問題というのがあってこれは一番最初に経験した時間には戻れないという哲学の問題です
経験したことは過ぎ去っていきます
その時間に戻っても戻ったという出来事が付き纏います
メタ時間が経過します
一番最初の経験というのは戻ってこないのです
今を大切にしたいですね
全てを知る事は不可能なので全てを知ってつまらなくなることはありえないということになると思いました
つまり全てだと思い込んでいる妄想です
デジタルコンテンツは長寿命ですが人間の寿命はいつ亡くなってもおかしくないぐらい短いものです
コンテンツより今いる人を大切にしてください
依存の問題は執着から来ます
執着しなければ依存しません
つまり観念的によって依存するかしないか決まってきます
楽しむことに依存するのは楽しむことに執着しています
これは過度な欲望であり鬱につながる可能性さえあります
結論としては観念的に決まってくるということであり本人の意思妄想次第で程々に楽しみながら生きればいいのです
この観念的であることが重要で
物質依存は精神的な観念ができなくなります
つまり精神的に楽しいと観念しなければ物質にがなくなったとき困るということなのです
我々は妄想の世界に浸り妄想に耽ている
それで幸福なら別にそれでいいんですよ
不幸や病気だと駄目なので妄想を治さなくてはいけないのです
そのためには妄想であることを知り冷静に見る事です
それが瞑想であり治療アプローチのひとつなのです
たとえばこの❤は何かと言えば
イイネやお気に入りや心臓や愛や様々な解答があります
人によって見方が違うのです
つまり確実に決まった事などないのです
全て我々が生み出した妄想なのです
過剰な妄想による欲求は浪費しあらゆる刺激に慣れて脳が感じにくくなりあらゆることがつまらなくなり鬱または虚無にさせます
人間が産まれて育つ環境はバラバラなので意見もバラバラになります
そして人間は今後何人産まれるか不確定で多数決で何か決めるのはよろしくないです
この意見の人間が多数いるしこの意見の方が良いというのはマイノリティーを生じさせるので意見バラバラで当たり前のように存在するマイノリティーが排除されてる時点で対立が生じ良いわけないのです
全ての人が幸福であることが一番です
どれだけ出来事や意見を認めているか差別つまり妄想をなくし真実を見極められているかが問われているのだと思います
時には観念的に楽しまなければ順調すぎるとつまらない人生になる
普通我々は完璧を求めてしまうので差別的になりますが
観念的になってみんなと共感しあい差別をなくすことでよりよくなっていくと思います
可能性を見出しているからあがくのであり
自由であるからあがけるのだと思いました
冷静沈着で見返りを求めないけど調和されているのがベストだと思います
この世の定義は全て多面的である
この世は多面的なのに何かひとつの解を求めようとしている
自分だけ偉くなって周りの人間が馬鹿になっても
馬鹿なことされて迷惑かけられたり馬鹿すぎて相手にならなくなってつまらなくなるんです
自分の内面を強化していない場合他人に依存関係にありますからこれまた問題になってきます
人生とは思い通りにいかないが故に頭や能力を使いコントロールして思い通りにしようとする
思い通りにならない不自由不幸であるから自由幸福になりたい
つまり人生とは自由幸福になるために歩むものであり生きる意味とはそれです人生です
我々は過去の体験や記憶から今の出来事を判断して理解しています
この体験がなければ今を理解することはできにくくなります
何が楽しいのか何が問題なのか
それらがわからないことを無明(無知)と言います
それがなにがなんであろうと
自分が納得していないとそれに意味はないのです
観念的になったり肯定感が大事です
正しいとか正しくないとか
高次元とか低次元とか
そういうものは全て妄想であり
実体は空であり
空さえも妄想である
自分の意思とは違うような事が生じたりする場合
無意識ではそれをむしろ求めている可能性がある
自分も他人も妄想して生きているのに
他人を批判することなんて妄想なのでできないのです
後期密教ではこの世に汚れたものなどない全ては仏の顕現であることを実感するために肉は食べますし性的ヨガもします
密教の教えは基本秘密にされてます
師匠から弟子に直接伝えないといけないのです
なぜかというと本を読んだり自己流だと有頂天になったりしてそれで悟ったと思い込むからです
他にも教えの解釈を間違って麻原のようにヴァジュラヤーナで魔境へ行ってしまう危険性もあるからです
本当の悟りは何かひとつの最高を求めることでもなく絶対的なひとつのものでもなく言葉では言い表せない瞑想でしかたどり着けない境地です
超越精神世界に行くスピリチュアル的なものです
というこれも文字で伝えてるだけなので嘘になります
科学は科学だと思い込んでいるから科学なのです
科学も妄想です
全ては妄想です
単に妄想を具体化明確化しているだけで正確だと思い込んでいるだけなのです
正しいも間違いもそもそも人間が勝手に決めている妄想です
どうなるかは全て我々の妄想や観念次第です
まず空とは実体がない実体のことです
悟りとは空によって得られる智慧の事です
要するに妄想世界の観念的に正しい対処の仕方が智慧であり
それは空いわば無我の境地によって得られるものである
無我ですが集合意識的なものは存在すると思いますし自我を戻すこともできます
重要になってくるのが観念で
どう観念するかで実体のない空の世界に留まるか或いは妄想の世界で自由になるか或いは悟りによって世界や自分を救うかが決まってきます
そして何が正しいか間違っているかという智慧も観念によって変化してきます
非科学的だと排除するのはよくないことです
我々はそれを解明してきて科学が発展してきたのです
幸福になるには妄想をよく理解して観念的になればいい
言い換えれば幸福になるように妄想すればいい
妄想するのは自分自身なのでまず自分の妄想世界を理解する必要がある
妄想に囚われている場合妄想が邪魔をするので空になる必要がある
つまり妄想であることに気が付いていない状態から気づいた状態へ持って行き理解する悟る
そして幸福になるように妄想し直せばいい
空も妄想
悟りも妄想
涅槃も妄想
無も妄想
物事を善悪で判断するのは良くないです
相手の事を思って嘘をつくのが良い場合だってあります
個性がバラバラなので全ての人に適応できる最適な答えもありません
世界はカオスなので全知全能にでもならないと何が正しいか間違ってるかは無限に完璧にはわからんのです
超極悪人が最終的に全世界を救うとしたらどう判断するのか
今この瞬間しか見ていない事になり浅はかな判断になります
人間の善悪は所詮妄想です
善悪とは個々の拘りや執着や妄信妄想から来ていると思います
拘るから善悪が生じ気に入らない認められないそして悪になるのです
ここで重要になってくるのが個性バラバラな多様性だと思います
多様性の欠点として多様すぎて対立が生じる可能性があるので相互理解して対立を解消しなければなりません
多様なのだから多様性を活かして多様な解決方法を見出せばいいのです
脳や妄想によってどのようにでもこの世界は変化します
個人がどのような世界を望んでいるかが大事になってきます
それを思想統一や洗脳や支配によって脳や妄想をコントロールすることや書き換える事は本人の意思に反するので倫理的にも許されないと思います
理想の世界や世界の方向はひとつではありません
本人がどういう世界へ行きたいかが重要になってきます
どのようにしてその多様な世界の多様性を認め合い実現させるかが課題となってくるでしょう