唯物論と唯心論どちらが正しいのかについてと多様性と真理についての考察

今回ひさしぶりに哲学の記事を書くことにした。
ツイッター(現X)ではたまに哲学的な事をつぶやいているのだがそれらをここにまとめていきたいと思う。

まず多様性と真理についてから。
多様性は大切なものであり多様性のない世界は多様ではないためすぐに飽きて楽しめなくなり幸福の少ない世界になってしまうというデメリットが存在する。
多様性がないと一部の欲求を満たせばそれで人生が終わる可能性さえある。生きる意味を失うのだ。
また人間の繁殖にも影響する。多様性があったほうが生き残る確率は高くなる。
多様性のデメリットは複雑化してカオス化することである。そして対立が起き問題が起きやすくなることだ。
これらは理解という真理を行うことで解決する。
ここで言う理解とは正確な理解の事であり、間違った理解ではないことに注意していただきたい。
人は理解することであらゆる問題解決方法を知ったり、自分の事を知って自分の精神をコントロールしたり、あるゆるものの楽しみを知ったり、コミュニケーションの方法を知ったりすることが可能だ。
この理解がないことを仏教では無明、つまり無知と言われる。
無知になると問題解決方法がわからなくなり問題が解決しなくなって不幸になったり、勉強方法がわからなくなったりして脳が退化していく。
老化した脳は鍛えないとどんどん退化していく。この鍛える方法も無知であるとわからないままであり衰える一方である。
歳のせいにしてしまうと無知のままであり鍛えないと何が人生に意味があるのか、また何が楽しいのかわからなくなってしまい非常に危険である。
倫理観や理性もなくなってしまうだろう。何が正しいか判断できなくなるからだ。
無知とは恐ろしいものでこれを解決するには理解が大切だ。

人それぞれ考え方や価値観が違うので作品の捉え方見え方は全然違う。
これが一番良いという正解はない。
クリエイターなら作品に多様性があるとカオス化することを注意していただきたい。
方向性を定める事が大事でそうすることで理解しやすくなる。
これが一番いいとかいうものは共感つまり理解しやすいもののことだ。
しかし多様性の観点から言うとある意味偏見なのかもしれない。
人それぞれ真理が違うという真理がある。
真理は個々の信念によって決まる。
主観的で精神が生み出しているというかそういう風に思ってしまっている。
そういう脳構造になっているので真実は見えない。
この世界に多様性があれば自分が納得しない作品が出来上がったとしても様々な人がいるので他の人には納得のいく良い作品だったりする。
また自分に理想や拘りがないと生産性がなにもなくなる。
個性はクリエイターに大切な要素なのだ。
また多様性は相互関係、ライバル関係などによりお互いに影響を与え切磋琢磨され成長を促す。
他人の作品を広く受け入れる事も重要だ。そうすることで自分の作品の幅や多様性が広がる。
要するに理解が大切である。

多様性という言葉で一般的に懸念される事は自由になってしまうことではないだろうか。
多様性を認めないのも多様性という理屈が存在する。
これは一見正しいように見えるが間違っている。
多様性を認めないのは自由だ。だが完全な自由とは不自由も含まれる。
全ての人間が自由になりすぎると犯罪まで起きてしまい無茶苦茶になり逆に不自由になる可能性の方が高いのだ。
リベラルと言うがAIによると"社会には、自由を制限する人々や、自由を否定する人々がいる場合があります。 このような人々は、自由を尊重しないことにより、自由を制限されることになるでしょう。 したがって、自由を尊重する社会でも、すべての人が自由になるわけではありません。"とのことだ。
""社会から離れた世界で生きることは、一見自由に見えるかもしれません。しかし社会との関係がないために経済的な支援や医療などの基本的なニーズを満たすことができなくなり実際には自由ではなく困難な状況に陥ることがあります。"とも言っている。
社会で決めた犯罪は犯罪なので多様性といっても認められない。
社会の決まりごととは法律などで決まるものだ。
法律は人間の話し合いで決まるものだ。
そしてこの人間は様々な人々がいるので様々な社会や国が存在している。
これが多様性だ。
そこで対立が起きる場合もあるし友好関係になる場合もある。
多様性を認める事、つまり正しい相互理解をすることで対立を解決し多様性のメリットを引き出す事が出来る。
矛盾が起きる対立する問題はどうしても解決しないので法律で定めて解決している。
人間の持つ性質のひとつとして自分は強いんだぞアピールがある。そこで対立が起きる。
種の保存、生き残るためには必要なことだったのだろう。
だから攻撃的な事が本能的に楽しめるのだ。
そこに快楽が加わると攻撃的なことやイケナイコト、性的な事が合理化されていく。
これは性的指向とも関係性がある。

ちなみに仮想現実世界やVRで完全隔離された世界で自由に暮らすというのは対立が起きないひとつの手段ではある。
ただその世界の中身が重要で、自分勝手な世界にしてしまうとフィルターバブルというものに陥ってしまう。
また多様性がない世界になっていってしまう可能性もある。多様性がないとつまらなくなってしまう。
また刺激が強すぎるとさらに強い刺激を求めてしまい脳の破滅に至る。

我々は偏見でものをみている。しかしそれは個性だ。
個性は多様性を生じさせる。つまり好き嫌いはあって良いが相互理解をしないと対立や偏見、差別につながるのだ。
お互いを認め合い、自分の事をわかってもらい、相手の事もわかってあげることにより、どうすれば良いか問題解決がわかるようになる。
これが理解することの大切さであり真理である。
AIによれば"自分が何かを嫌うことは自由ですが他者を攻撃する意図がある場合や人権や尊厳を侵害する場合は問題がある事を認識する必要があります。また人々が異なる属性を持つ事がある事を理解し個人的な好みや嫌いを表明する際にはそれらの属性に対する偏見や攻撃的な表現を避けるように努める必要があります。"
"全てを嫌う人は発言を抑えつつも他の人の考えや意見を尊重し自分の意見を丁寧に述べることが大切です。自分の考えを他人が理解できない場合は人々の違いを尊重し丁寧な議論を行うよう心がけることが大切です。"とも言っている。

また、非現実的だが全ての人間が全許容することで問題は解決する。
全ての多様性を許容つまり認め合っているからだ。
しかし実際現実世界では様々な人間が存在しており、対立が必ずどこかで生じるようになっている。
完全に全ての人間が全てを許容するようになることはまずないだろう。
そうなっていくのがある意味理想ではあるが…。

理解が深まればなんでも楽しめるようになる。
そこらへんに落ちてる小石を集めるのが趣味な人もいる。
理解力があれば全ては快楽になる可能性を秘めているのだ。
虚無感とは無知からやってくる。
楽しみを知る事がないから楽しくないのだ。
自分の興味のない事はそのことについて理解していないつまり無知なので楽しめない。
嫌いなことでも理解することで好きになったりする。
欲望が煩悩を生み出すとよく仏教哲学では言われている。
欲望はあっていいのだが誤った理解をすると煩悩になるのだ。
煩悩や欲望、不幸を深く理解することで幸福にすることも可能だ。
全ては自分の主観的なものであり観念によって変化する。
苦しみとは成長のために存在する。
苦しみのない環境では成長することはない。
苦しみも学びとして大切な要素なのだ。
だが将来未来では苦労しないで脳に能力をインプットする技術が存在する可能性がある。

話は変わるが真理とは哲学で言う唯心論と唯物論との関係性がある。
自分の信念に普遍性があればそれは真理だ。
普遍性がなければただの自分の信念であり偏見の可能性がある。
ここでいう普遍性とは現実世界の物理的な事に合っているということである。
しかし唯心論的には信念がこの世界のすべてを作り上げているので信念に基づく普遍性が真理だと言える。

精神や意識がこの世界を作り上げているという説が唯心論。
物質、物理的なものがこの世界を作り上げているという説が唯物論
これらは対立した理論で長く哲学者の間で議論されてきた未解決問題だ。
物という言葉が有形無形の一切のものという定義なら唯物論でもいいような気がする。
要するに定義の問題でもある。
信念や観念によってそれは決まる。
しかしそれでも我々は主観的な見方から抜け出せない。
脳や精神を超越できないのだ。
超越できる可能性はある。だがまだ未体験だ。
将来遠い未来では脳や意識の拡張が可能になり360度視野が広がったり存在しない色やクオリアを認知することが可能になったりするかもしれない。
それでもそれが物理によるものなのか精神によるものなのかは不明だ。
この問題はクオリアと同じぐらい解決しない難しい問題だ。

以上がここ最近で悟った哲学的な話である。
何かの参考になる事を願っている。