密教と観念と阿頼耶識について【仏教密教入門】


最近は霊的、スピリチュアル的に密教の理解を深めている。
密教は神秘的な要素が入った秘密仏教の略で呪術(呪い)を使って霊的な霊能力を身に付けたり呪文(真言・マントラ)を使ったり深い瞑想によって阿頼耶識にアクセスし自由に書き換えるというものだ。
密教美術で言われる曼荼羅とは宇宙を現しておりこれに意識をアクセスすることで宇宙にアクセスできるようになるスピリチュアルアイテムだ。
またその瞑想中には様々な仏や神との出会いもある。
この密教は神に関する事は宇宙人とも関係性があり宇宙人は我々を作った可能性があり密教は宇宙人と関係性がある可能性さえある。

最近悟った事といえば観念でこの世界の全ては変化するということである。
これは仏教乃至密教で言う唯識論というものと似ている。
唯心論(観念論)とは厳密には違うがほぼ同じものだと思ってもらっていい。
この世界は全て妄想が生み出した妄想の世界であり、妄想であるからして呪術や霊魂や神や仏など幻覚幻聴など妄想できる事は全て生じる。
そして我々の思想とは全て妄想妄信であるからしてこの世界に実体はない、つまり真の実体とは空である。

要は心、精神、認識、全ては観念や意識によって生じているということだ。
この唯識論では阿頼耶識という深い無意識、潜在意識が存在する。
精神分析学でいうエス(イド)に近いものだと思ってもらっていい。
ここ阿頼耶識から全てが生じておりこれを認識しているのがこの世界の実体であるというのが唯識論だ。
唯心論と唯物論は哲学の話題だが唯識論もそれに含まれる重要な理論だ。
これらどれが正しいのかは未だに哲学の世界では不明とされている未解決問題だ。
追求すると運命や決定論、自由意思、不確定性原理とも関係してくる。
哲学で有名なものでミュンヒハウゼンのトリレンマというのがある。
根拠や確証や証拠がなければなんでもそうだと言えないというものだ。
これはどこまでいっても得られることがないというものである。
しかしどちらかというと観念によって全ては変化するという結論に一応至っている。
いわばこの世界は夢の中の世界のようなもので我々は記憶から生まれる夢というものを見ているに過ぎない。
現実とは夢よりも物理的法則の厳しい夢、または仮想現実だと思うとわかりやすいだろう。
仮想現実というゲームの世界を生じさせているのはプログラムである。
このプログラムのバグをハッキングにより見つけたのが釈迦である。
釈迦は古代のハッカーでありチートコードというお経を教えてくれた優しいホワイトハッカーだ。
密教でも呪術というチートコードを利用することで幸福を得る。

無明(無知)であるからして阿頼耶識が認識できない、
つまりこの世の理解ができない。プログラムが読めない。
これが原因となって苦しみや不幸などを生み出している。つまり詰んだ状態だ。
これはこの阿頼耶識をチートコードで書き換える事により幸福にしてしまえばいいのだ。
幻覚幻聴や霊的な霊障、サイキックアタックはチート的であり尚更チートコードで解決しなければ治らない。
宇宙と一体化することで阿頼耶識にアクセスできる可能性がある。
これが密教の神髄である。
密教とは欲望や霊障を幸福に変える仏教である。

先日寝転びながら瞑想していたら深い瞑想に入って全身に電気が走りまくって恍惚状態で聴覚感度MAXになって小さい音が警報音みたいになって金縛り状態になってしまった。
コントロールするのがちょっと難しかったがなんとか戻ってこれた。
全能感があり自分の悪い思考が実現してしまいそうな感覚があり制御できそうになかったので戻ってきた。
夢だったかもしれないが覚醒していたので夢と現実の境界線がわからなかった。
幻覚ともいえるが幻覚なのかも立証不可能だ。科学的に言えば夢や現実はパラレルワールドかもしれない。
この体験から言える事は現実は精神または観念によって変化するということである。
観念とは諦めるという意味の方ではなく、ものの見方の事である。
いわば念である。観方を念じることで変化させるのだ。
明晰夢では自由に夢をコントロールすることが可能になるケースがある。
これが現実で可能になれば現実世界は自由に操る事が出来る。
阿頼耶識を書き換えることで自由になれるのだ。
だがこれは危険も伴う。間違えば精神的におかしくなる可能性がある。
たとえこの世界が観念によって生み出されるゲームソフトであっても間違えばゲームオーバーだ。
チートコードも間違えばバグる。最悪リセットしか方法がなくなるほどバグれば取り返しがつかなくなる。
密教が秘密仏教である所以であると思われる。(如来秘密)
観念によって全ては変化するが間違った理解、認識、邪見をすることで魔境、地獄や不幸な世界へ行ってしまうのだ。
これは自分の理解力や精神力、自己の思想や信念が重要になってくる。
自分の信念が間違った信念であれば自業自得で魔境や地獄に落ちてしまうのだ。
正しい理解というのは大事で自分にとって何が正しいかをよく見極めそれを普段から心がける事だ。
霊界でも同じことがいえる。死後の世界は自分の信念によって変化するといわれている。
この世界には因果応報があるのでそれなりに自由にしていては自業自得で地獄に落ちる可能性がある。

思うに波動や念は観念によって全く別のものにコロコロ変化するので高次元の存在か自分自身や脳から感覚として当人に送られてきてるだけだと思う。
念が込められている物は念がこめられているという事になっているから高次元の存在から送られてきているだけで物自体から念や波動が出てるわけではないかもしれない。
詳しい物理法則や仕組みなどは阿頼耶識にアクセスするなり悟るなりしないと不明だが、我々には具体化という物理学というものがある。
物理学とは物事を具体化することである。
つまり仕組みを理解するということである。
ただしここでも間違った理解をすれば間違った物理学が身につく。
具体化することにも理解力が大切になってくるのだ。

予測という概念は哲学的に興味深いテーマだ。
例えば何かを知るということは恐らく予測でしかない。
我々は物事を知り自分の記憶や経験からそれを判断しているがそれはあくまでその人の考え思考であり予測でしかない。
現実の何を知ろうが予測を超えられない。
我々は不確実性と観念によって変化するという何が現実なのかわからない世界にいるのだ。
我々が知的である限り知的を超えることはできない。
実体を知ったところでそれは知的に思考した予測の結果でしかないので本当に実体なのか判断できない。
また仮に知的でなくなれば実体を知ることはできなくなる。
予測でしかないが理解し具体化していけば科学のように発展していくと思う。

欲望は意思から生じている。
意思とは信念であり観念でもあり心の問題でもある。
阿頼耶識という無意識や潜在意識から生じているかもしれない。
つまり欲望は訓練次第で制御できる。

利己でも利他でもどちらでも観念次第だが多様な理解がなされないと自業自得で不幸になる可能性がある。
多様性とは理解力を鍛えるには大切なものである。
多様性で多様なものを認めることで多様な思考ができるようになり多様な理解が得られるのだ。
そして多様な幸福が得られるようになる。
そして多様な問題解決ができるようになり不幸や煩悩が取り除けるようになる。
好き嫌いをなくし全てを一旦受け入れ考える事、理解する事が大切だ。そして解決方法を考え観念や行動しなければ解決しない。

話は変わるが同じ名前の神様でも実は無限通りに存在する。
自分の観念によって生み出されたもの、
他人の観念によって生み出されたもの、
自然に生み出されたもの、
神社に祀られているもの、
その神様の別次元の神様であったり過去の神様であったり様々だ。
どの神様に願うかでちょっと効果が違う。
また自分で想像したものは新たに生み出される。
変なもの、魔物や悪魔などは想像してはいけない。
観念によって全ては変化し存在するし存在もしなくなる。

この世界は様々な世界線があり観念次第で変わっていく。
自分で観念することは難しいが神様や仏様、高次元の存在に願う事で変わっていく。
そういう仕組みになっているようだ。

また話は変わるが、作品が評価されない場合、マジョリティーに合わせた表現をすれば評価されると思う。
マイノリティー向けの表現では出世しないと思われる。
いくらマイノリティー向けでそれを追求して進歩させても評価は変わらない。
多様性が認められればマイノリティーが認められ多様なものが評価されるようになる。
我々は新しいものとか見たことのないものとか自分と違うものとかはそれがなんなのかわからないので判断できないので評価できないのだ。
一般的に知られている事に基づいていれば評価される。
これは理解力という理解という真理の問題でもある。
多様性には相互理解が大切だ。

多様なものを認めていないから多様な考えができないので差別はそもそもできない。
差別とは自分の妄想だ。
無限の世界を判断し差別するには無限の時間と思考と命などがいるのでそもそも不可能ということだ。
我々は浅はかなのだ。
浅はかな自分の思考から差別は生じる。
差別をなくし多様性を認める事が全てを受け入れ宇宙と一体となる方法でもあり、阿頼耶識にアクセスする方法、アクセスし理解する悟る事、解決する事、幸福になる事、これが真理かもしれない。

また話は変わるが、我々は生きている限りこの宇宙の何かに依存(何かに頼る)ことになる。
物質であったり人であったり自分の精神や肉体に依存する。
ということはなくなった時に困るという問題が生じてくる。つまり依存から依存症になる。
存在する限り依存は問題ないのだが宇宙にも終わりはある。
肉体にも終わりはある。
我々は依存することから抜け出せない。
しかし梵天(ブラフマー・宇宙の創造者)がまた作ってくれれば問題は解決する。
全く同じ形でまた産まれてくるかは微妙なところだが可能性や確率はゼロではない。
いつかまた宇宙が生まれ意識が生じ同じ世界で暮らす事になるかもしれない。
これが輪廻転生である。
これがあるなら宇宙や何かに依存していても問題はない気がする。
しかし現実問題ものがなくなったときはやはり困る。
我々はものがなくなったときにでも自力で解決する精神的な能力を身に着ける必要があるのだ。
万が一のために。