なぜ人それぞれ生き方が違うのかと完全な確率に関して

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人それぞれ考え方が違う。人それぞれ価値観が違い、方向性が違う。
それはなぜかと言えば、生まれ育った環境や教育によって性格の形成が変わってくるからだ。
DNAの遺伝によっても変わってくる
なにか一つ正しい事、つまり真理があればそれに従ってこの世界で生きていれば良いはずなのだが、
なぜか人それぞれ別の生き方をしているのだ。
やはりランダム性が高い、カオス化したこの世界、多様化したこの世界のせいだろう。
ではなぜごちゃ混ぜ状態の世界なのだろうか。
我々は実は真理に従って動いているのかもしれない。
真理とはこの世界の動きそのものであり、その動き方は変わることがない。
要するに決定論的なもので、何がどう動くかはこの世界は構造体なので既に決まっているというわけだ。
しかし世界という構造体の中に存在する我々は、そうではないと思う事が出来るし、人生の選択をしている気になれる。
何故だろうか。"知らない"という事で確率が生まれ、選択の余地が生まれ、様々な価値観が生まれる
我々が知ることが出来るものには物理的に限界もある。人間が感じられる事以外は知ることが出来ない。
それ故に全てを知ることが出来ない。

興味深いのは全ての人間や生命がバラバラに行動しているという事だ。
なにか絶対的に正しい事を知っていればその人はその通りに生きるだろう。
つまり真理の通りに生きる。
そうではないのはなぜだろうか。
この世界の構造、動き方が真理であるなら、我々は既に真理に従って生きているのかもしれない
しかし構造を完全に知らないが故にバラバラに生きているように思える。
この世界が誕生した前の事に関係している可能性がある
そもそもこの考え方がおかしい可能性もある。


隠れた変数理論 - Wikipedia

話は変わるが、五分五分の状態とはどういう状態だろうか。
どっちでもあるなんておかしな話だと思えるのだ。
50%生きていて50%死んでいる確率は存在するのだろうか。
この世界では50.00000001%と50.000030413%とか細かい差があると思うのだ。
50%ぴったりなんてめったに起きないと思う。しかし全く起きないわけではない。
ここで無限というものも関係してくるがそれは問題ないと思う。
無限に完全に50パーセントぴったりと50パーセントぴったりの時がある可能性はある
そもそも数値とか尺度というのはどこからどこまでをこの数値にすると決めているのである。
この世界を見たり感じたりして何をどう解釈するか、意味づけるかは自由なので、
ここからここまでが50%でここからここまでが50%だと決めるわけで、
勝手にここからここまでで50%ぴったりだと決めてしまえばぴったりになってしまうのである。
実際真理的現実的にはそんなわけはない。
では真理的な50%ぴったりとはなにからなんだろうか
無限の世界だと、無限にぴったりであると決める必要があるが、無限に知る必要があるので、無限に知るという行為が終わることがなく、故に知ることは出来ない。
しかし計算で予想することは可能だ。
あと確率が完全に0というのも有り得るのかという問題もある。
今ここでこれを読んでいるあなたが住む世界が今すぐ終わる場合、
明らかにこの二行目の文を読んでいるのなら確率は0だったことになる。
しかし完全に0だと言いきれない。偶然起こる可能性はあった。
でもそれはやはりこの世界の構造を知らないからであって、
完璧に0と言える構造もあるかもしれない
何かがこの世界にいつでも或いはある条件で介入できる余地がある構造であるのなら確率はある
しかしその構造であったとしても、超細かい事を知ってみると絶対的にこうなると決まっている事が判明して確率なんてないのかもしれない。

ここまでを簡単にまとめると、
確率とは現在自分が知っている事から導き出した数値であって、完璧な確率ではないのだ。
完璧な確率とは無限に全てを知って導き出さなければならない
それは計算で予想できる
しかし完璧に全てを知っているのならそれはもはや確率ではなくなっているのではないだろうか。
量子論では確率が採用されているが私にはどうもよくわからない。
まあ知らないことが多いしわからないことは計算で導くしか無いのだ。
そのためには確率も必要になるというわけだ。
哲学的なアプローチをするとちょっと変わるのだが…
誰かこの件についてわかった人はコメントを残して欲しい。