観念とは一般的に諦めるという意味で使われることが多い。
観念しろとは諦めろという意味で使われる。
この観念とは元々仏教用語で意味も違う。
諦めるも仏教用語で意味が違う。
なぜ現代のような意味になったのかというとある説が考えられる。
まず観念とは本来、考え方の事や思想を抱く事である。
観念的になるとは考えるようになる、思うようになるという意味である。
そこで問題はどのように考え思うかである。
まさにその考え方や思い方は現代の意味である諦めるだったのである。
そして諦めるという仏教用語は本来明らかにするという意味である。
覚悟するという意味でもある。覚悟も仏教用語である。覚悟とは文字通り知覚(自覚)して悟ると書く。
我々は神ではなく全知ではなく何事も無明(無知)であるからして、この世界の物事を明らかにする(理解する事や知る事、知覚自覚)で観念的になれる。
つまり納得して諦める事ができるというわけだ。
それが転じて現代のような使い方がなされているという説が考えられる。
そして観念や諦めるにはもうひとつの説が考えられる。
何も考えずに諦めれば脳内でデフォルトモードネットワーク(DMN)が活性化して脳内では物事が明らかになっている可能性がある。
デフォルトモードネットワークとは無意識に活性化する脳内神経回路でこれらが様々な事を無意識に考えているものである。
つまり現代の意味通り諦める事が明らかにするという意味にもなり観念する事にも繋がる可能性があるという説である。
瞑想などもそうである。
諦めて何も考えずに空になれば悟るようになる。
これは瞑想時にエゴ(自我)を捨てて無我になれという意味でもある。
諦めて自我を捨てる事で冷静に物事が理解できるようになるからである。
そもそもなぜ諦める必要があるかと言うと、我々は煩悩即ち悩みによって苦しむ。
その悩みを捨てて諦めてしまえば問題はなくなる。
しかしそれはなかなか難しい。
なにが重要かというと理解する事、つまり明らかにすることである。
物事を明らかにすることで理解が深まりポジティブな観念を抱く事が可能になる。
諦める事は無我になり冷静に理解ができるようになり理にかなっているという事である。
このような背景があるため意味が転じてというより浅い意味で使用されるようになったのだろう。
個人的に最近思うのが、先読みする事が観念する事に繋がっているような気がする。
結果を知ってしまえば不安はなくなる。
これはネタバレだがジョジョの奇妙な冒険でも運命を知ってしまえば幸福になれるという話がある。
先に全てを知ってしまえば幸福、つまり悟れるのである。
全知であれば全てがわかった状態なのでなにも知る必要がないし悩みも解決するし全ての問題解決方法が解るので悩みがなくなるのである。
そして安心感による充足感などリラックス効果もある。
それらはポジティブな思考の方向へ向かわせるものでもあるし座禅や瞑想でそれらは会得する事が可能である。
しかし悪い事も知ってしまうと悩み煩悩が出てくる。
これは無我になる事で排除する事が可能である。
ここでも諦める事が大切になってくるようである。
観念する事や諦める事とは実に奥が深い。
ちなみに諦という字は真理の事を意味している。