この世は平等なのかという哲学問題について考えてみた

この世は平等なのかという哲学問題について考えてみた。

この世は平等なのか。
それを知るためには全てを知る必要がある。全てを吟味して判断しなければならないからだ。厳密にはそのほうが良い。なぜなら平等であると決めた後から俺は平等じゃないぞという人物が出てくるからだ。厳密に調べておけば平等であるとかそうでないとか論破できるので厳密な方が良い。この辺は法律や法廷でもそうである。
この時点でフレーム問題なんかが出てきて解明不可能になるが一つだけわかることがある。
それは全知全能の神ならわかるだろうということである。
ちなみに世界全てではなく世界の範囲を狭くして平等かそうでないかは決めることができる。
それが許されればそれはそれで良いだろう。だが厳密には完璧な平等という判断ではないといえる。

全知全能の神について。

ここで言う神とはこの世界そのもの全てを知る者の事である。
ここで少し疑問が出てくる。
神は矛盾することが起こせるのかということである。
矛盾が起きるとすれば平等かどうかなんて話をしている場合ではない。
平等でもあり平等でもないが実現されてしまう。そしてそれらを超越する事も起きてしまう。
ここは危険すぎるので後で考えたほうが良さそうだ。
まずそもそも神を含めて平等だとしなければならないので人間と神が平等でなければならなくなる。
全知全能の神と全知全能ではない人間が平等など言えるのだろうか。

神と世界が合体している神は次に起きる事全て知っているのだが、無限に続くこの世界の全てを知るにはどうすればいいのか。
フレーム問題みたいなものが出てくるというわけだ。つまり無限に全てを知るには無限の時間が必要だということだ。

(合体しているので全てが無限に丸わかりで全能なので全てを知っている)
神と世界が分離していた場合、神の住む世界と我々の住む世界が分離されている可能性が高い。
その場合完全に分離しているとは思えない。神の介入があるはずだからだ。神が我々の世界を一瞬でも見てしまえば介入したことになる。我々の世界を知る者は関係を持ってしまう。
全知全能の仕組みがそもそも不明である。そんなことが可能なのだろうか。
まあ無限に全てを知っているわかっている構造だと仮定すれば良いだけだ。そういう存在が全知全能の神である。
そこで平等なのかどうかが神にはわかるわけだが、実際のところどうなのか。
さっき言った神と人間が差がありすぎて平等じゃないという問題が出てくる。
ここで言い訳すると神は忙しく大変なので人間とうまく釣り合っているみたいな感じだろうか。
しかしここでよく考えてほしい。神は全知全能なのである。全能なら問題なく大変な思いをしなくてすむ方法をとれるわけである。
だがそれをしないのは神が平等にするためだと言い訳がまたできてしまうのだが。
では神がそこまで平等に拘る理由はなんだろうか。
人間が平等に拘っているからだろうか。
拘らなくても全知全能なら矛盾が起こせるので、神が楽してても平等ということにできるはずである。
その時点で平等と言えるのかという問題がまた出てくる。矛盾だからだ。
この矛盾が起きるとか全能であるというのは非常に難しい問題で我々には考えられない領域である。

我々やこの世界は平等なのか。

産まれた時間も肉体も精神も違うので平等などありえないのだが、
結局のところ神のみぞ知るという結論になるのだが、我々が決めても良い気はする。
ただしそれは不完全な平等である。厳密に調べていないので完璧に平等とは言えない。
平等でなければならないという思想がそもそも人間の勝手に生み出した思想なので神にはあまり関係がないとも思える。
この世界は実にカオスである。
平等なのかどうかは将来AI人工知能が発達して解明してくれるだろう。
そして頭の良いAIの指示に従えば平等に近くなれるはずである。
だがその平等は人間のルールに基づいていなければ犯罪や処刑までしなければならなくなるだろう。
まさに閻魔AIの誕生である。
ある人には地獄になるしある人には天国になる。
そんな人間の考えられる領域を超えた平等など意味があるのだろうか。
平等は我々が決めなければならない。
しかし厳密にはできない。
我々は閻魔AIに従うのかそれとも抗うのか。
難しい問題である。
まあAIにすべてを見せられ納得させられる可能性があるので従う可能性は高いと思っておいたほうが良い。
すでに平等である可能性もあるので現状のままで問題なかったりもする。
この場合不平等であるとして問題にしてしまうのは自分が不完全で未熟だからである。