クオリアの内部構造と意識とは何か考えてみた

意識のクオリアとはなにか。

意識とは自分が今何をやっているのか等を認識することである。
そして意識のクオリアとはその意識そのもの(現象的意識)、つまり認識したと感じるその感じそのものである。
その意識のクオリアとはいったいどのような内部構造なのか。それは現在誰にもわからない。
現代ではクオリアの内部構造など解明できないのだ。何故ならクオリアの内部構造は意識を超越しているからだ。
意識を超えた構造が存在するのは確かである。この世界には全て構造がある。この世界は構造体であり、構造体の中にあるものには全て構造がある。
つまりこの世界にあるクオリアや意識にも構造があるということになる。

未来では3Dプリンターで脳を複製して電脳化サイボーグ化する。

将来脳の情報を全てデジタル化してマシンにデータを移してサイボーグ化する技術が登場すると思うが、クオリアや意識について解明されていない場合、脳を移したその人物と同じように振る舞う意識のないただの機械でしかなく所謂哲学的ゾンビのゾンビ状態になるだろう。
全ての人間がそのようになってしまえばこの世界から意識を持った人類は消え機械が動くだけの哲学的ゾンビワールドになってしまうだろう。
しかし3Dプリンターで脳の構造を完璧に複製、プリントできれば、その脳で意識やクオリアが生じる可能性が高い。
つまり脳の構造を機械と接続する構造に改造して3Dプリンターでプリントすれば意識やクオリアのあるサイボーグが誕生する。
ゾンビワールドになってもそのゾンビ達が脳をプリントする技術を確立してまた人類が復活する可能性がある。
まずは意識やクオリアのないただの機械であるゾンビサイボーグが実現されるはずである。その後技術が進歩し、脳構造を持った意識やクオリアのあるサイボーグが誕生する可能性が高い。
テレポーテーション技術は意識を一緒に転送しなければならない。それにはクオリアの意識について解明しなければならない。
ただしこの世の全ての物質に意識が存在するという説があるので電子回路の流れだけで意識が生じる可能性はある。そこらへんはやはり確証が得られず不明である。

クオリアと意識の内部構造とはどのようなものか。

まず結論から言うとクオリアは解明できないので何かわからない。
クオリアや意識の内部構造は解明できない。
こういう脳構造にすれば生じるということは解明できるのだがクオリアや意識そのものの内部構造は解明できないのである。
内部構造は解明できていないが、とりあえず意識が生じる(と考えられる)からこれでヨシ!ということになるだろう。
我々は脳の物理に従ってクオリアや意識がどうなるか決まるのである。
そうやって脳を物理的に操りクオリアや意識を操作することは可能だがきちんと内部構造を知る必要もあると思う。
しかしそれは超越しなければ絶対にわからないと思う。
果たして超越せずに哲学的に解明可能だろうか。
電波は目に見えないが観測することは可能である。
クオリアは観測できない。
クオリアは脳内部で生じているのだろうか。それと外部だろうか。
ますます謎が深まる。
この世の全てが素粒子でできているのならクオリア素粒子でできいる可能性はある。
そもそも素粒子クオリアでできているのかもしれない。
この世の全てはクオリアでできているということかもしれない。
こういう脳構造にすればこういうクオリアを感じるという事自体がクオリアかもしれない。
論理までクオリアだということだ。
そのクオリアの内部構造はわからない。
超越しなければならないのだ。スピリチュアルな感じもする。
仮に超越してクオリアの内部構造がわかったとしても、それは構造体の一部であり構造があるだけである。
感覚や形態が違うだけでただの機械的な物理的な構造の一部でしかない。
しかしその確証はない。全く別次元である可能性はある。
構造という概念を超える可能性がある。
結局この世界には現在感覚という構造体があるだけである。
物理的物理学的な構造体の構造は構造を観測したり見たりして感じ取っているだけで構造が実際に存在するのかは疑問である。

思考そのものはクオリアの一種か。

クオリアは全ての感覚にあると考えられる。
例えば思考もクオリアの一種であると考えられる。なぜなら思考というのは感覚的なものだからである。
我々はなにか考えるのに言語というものを使って思考する。しかしその言語は感覚的なもので思考するのも感覚的なものになる。
なぜ言語が感覚的なのかというと説明が難しいのだが、脳内で論理的に処理されるわけだがその処理が感覚的なのである。
要するに体で感じた感覚的抽象的な体験や記憶とそれを言語で結びつけているのである。
言語は文字を見るという感覚的なもので覚え、発音を音という感覚的なもので覚え扱う。
所謂志向的クオリアに近いもので個人的には直観的クオリアといっている。無意識や潜在意識と関係がある。
何を考えるかは急にパット思いつくものだ。その思いつきが感覚的で直感的にやってくる。思考するのも思いつきで行うので感覚的なのだ。
というのが持論だが間違っている可能性も考えられる。ここはまだ完璧に解明できていない。
思考することで意識が生じる。今自分が何をやっているかは思考することでわかるからだ。
意識とは自分が今何をやっているのか等を認識することである。

なにも感じなければ意識は生じない。

認識の識は意識の識である。知覚や認知することで意識は生じる。
思考も感覚的なので感じるものとする。
単純になにか感じることがあれば意識が生じ、何も感じなければ意識は生じない。思考も残らない状態だ。
意識と現実の物理世界は分離しているのだろうか。

人間が眠りについているときは意識がない。

人間が眠っている間は意識がない。現実の世界では肉体が存在し心臓が動いているが意識はないのである。
それを確かめられるのは起きている人間である。
眠っている者はビデオに自分が寝ているところを録画でもしておいて後で確認して見れば意識だけがなくなっている事がわかるだろう。
しかし意識がこの世界全てを生み出しているとすれば、録画してもその録画した映像も意識が生み出している可能性がある。
そもそも意識を構成している構造が意識の外の世界にあるはずである。
その構造によって意識が世界を産み出していると考えられる。

意識と現実の世界とはどういう関係なのか。

意識がこの世界の全てを生み出しているのか、それとも本当の現実の世界が存在するのか。それはまだわからない。
本当の現実の世界とは意識の外にある世界である。
意識を超越した世界だ。この世界にクオリアや意識を構成する構造があるはずである。
超越しなければクオリアや意識の内部構造はわからないのである。
それは形而上学的で霊界との関係性も考えられる。
まだまだ解らないことが色々あるのである。
気になるところである。


あまり関係のない余談

決定論というのがある。
全ては構造体であるので全てに構造があり構造通りに全ては動く。
そのため構造を調べれば全てどうなるかわかるのである。
つまりこれから起きることも構造がこうだからこうなるとわかるのである。
ということは今後起こることは全て既に決まっているということになる。
しかし我々は選択をすることができる。そして未来を決められる。
それも含めて構造体とすることはできるのだが、一時的に選択して自由になれる瞬間があるのは確かだ。自由意志みたいなものだ。
その瞬間とは一体何なのか。これは意識と関係がありそうだ。